日光街道歩き①

10月下旬、日本橋から日光東照宮まで踏破しました。
あまりの疲労にほとんど写真を撮らずに歩き進めたため断片的な資料しかありませんが、再訪して補充しつつシリーズものとして作っていきたいと思います。
第一弾は日本橋~越谷(蒲生)までです。

日本橋

日本橋

日光道中はここ日本橋より始まります。その距離ざっと150㎞ほどでしょうか。昔の人なら3・4日で駆け抜けるようですが、現代に生きる自分にそれほどの脚力はありません泣。
1日25㎞移動すると仮定して、およそ6日ほどかかる見込みです。まぁぶつぶつ言っても仕方ないので歩きます!

日本橋の創橋は、徳川家康公が幕府を開いた慶長八年(1603年)といわれており、翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。
江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所だったとか。
現在の日本橋は、明治14年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二重アーチ構造で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。

まずは浅草方面へと向かいます。
途中、三越本館や日光街道本通りの道標、横山町問屋街を抜けていきます。


屋形船の写真は浅草橋あたりです。
これに乗って花火眺めながら麦酒なんて最高じゃないか!なんて思いながら歩き進めるとスカイツリーが近くなってきます。

千住

浅草橋から浅草寺までは数十分だったかと思います。
仲見世で人形焼きでも食べようかと思ってましたが、修学旅行生や訪日旅行者の多さに圧倒されてしまい、早々に旅の安全祈願を済ませて出てしまいました(笑)。そして浅草寺から泪橋を経て千住大橋へ。
なぜ泪橋という名前なのか・・・
ここには小塚原刑場というのがあり、ここに引っ張られる罪人とその身内が泪を流してお別れしたことに由来するようです。

千住大橋
文禄3年(1594年)、家康公が江戸に入った後、隅田川に初めてかけた橋。
架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが工事は困難を極めたようで、忠次が熊野神社(南千住)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。
この橋は日光道中初宿の千住宿の南北を結び、また、江戸の出入り口として位置づけられ、多くの旅人が行き交った。松尾芭蕉もここから「奥の細道」へと旅立っていった。

千住大橋を渡り、芭蕉の句碑横を歩き進めると千住大橋が現る。
ここを渡って進めばもう少しで草加宿。この時点で足の裏に水ぶくれが2つできてました。
堤防沿いから後ろを振り向くと、近くだったスカイツリーがもうあんな遠くに・・・、かなり進んできました。

草加

ここ草加宿の名産といえば!そう、草加せんべいです。
なぜお煎餅なのか・・・?その由来は、
草加松原でお茶屋さんを営んでいた「おせんさん」が売れ残った団子を潰して干して焼くと良いと言われて始めたのがきっかけだとか。
市街散策をしていると煎餅屋さんがちらほらありますが、高級品のような雰囲気で手が出ませんでした。探せば「壊れおかき」くらいはったかもしれませんが、ここは先を急ぎます。

都県堺を過ぎて市街地を抜けると、街道は綾瀬川沿いに出ます。
ここから続く松並木が「草加松原」です。
この松原は、天和3年(1683年)関東郡代伊奈氏が綾瀬川を改修した際に植栽したものと言われてます。当時は「千本松原」と呼ばれ名所であったようです。

余談ですが、この河川改修事業、家康公の時代より取り組みがなされ、有名どころでは利根川東遷事業があります。この河川工事は莫大な資金と労力を必要としましたが、それらの負担を西国大名(外様)に負わせるなどして進んでいきました。利根川は、もともとは江戸を通過し東京湾へと流れていましたが、東遷事業によって常陸川へとつながり銚子へ流れるに至りました。この当時の事業の名残が地名として残っており、加須市北部の新川通はまさに東遷事業の最前線でした。

越谷

草加松原を進み外環道の高架をくぐると、まもなく越谷市に入ります。

外環道の高架をくぐりさらに綾瀬川沿いを歩き進めると蒲生大橋に出合います。
この橋は「大橋土橋」と呼ばれ、足立郡(草加市)と埼玉郡(越谷市)の境目であったようです。ここを渡ると目の前に蒲生の一里塚があります。ここはちょうど江戸日本橋から5里目です。
時間は15時頃ですが、足の疲れと翌日の徒歩に備えて早めに終了します。

この日歩いた距離28.5㎞ 歩数37500歩 歩行時間6:00

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