関宿城
昨日の寒さから一転してぽかぽか日和です。
昨日、お蕎麦屋さんで牡蠣天そばを食べた後、千葉県野田市にある関宿城へ見学に行きました。
子供のころに連れてきてもらってましたが、中に入るのは久しぶりです。
券売機で入場券(300円)を購入し入城!
今回の企画展は「関東 塩ものがたり」ということで、製塩方法や製塩事業の歴史的変遷、塩から見る人々の暮らしなどがたくさんの資料・解説文によって展示されていました。以下、パンフレット記載の概要です。
関東 塩ものがたり
❝江戸川が東京湾に注ぎ込む市川市行徳周辺は、江戸時代初期から塩の生産地として幕府の保護を受け、関東髄いつの塩田が広がっていました。その後、海運の発達とともに瀬戸内産の塩が江戸にも大量に出回るようになると、行徳の塩は製法を改良して質の向上を図るとともに、販路を江戸川・利根川流域に広げ、関東内陸部をも市場とするようになりました。
この企画展では海から川を通じて内陸に運ばれた、人が生きるために不可欠な「塩」をテーマに、塩づくり技術の変遷、行徳塩田の成立と興隆、瀬戸内産の塩との商業的攻防、舟運の果たした役割などを示す資料を展示し、関東地方の塩の生産と流通の歴史を紹介します❞
というわけで、ざっくりと紹介していきます。
縄文時代と霞ケ浦
茨城県の霞ケ浦沿岸では、今から3500年前から製塩作業が行われていました。稲敷市畑貝塚や美浦村(稲敷市北部に隣接)の法堂遺跡からは、炉跡や製塩土器が見つかっています。これらの遺跡は、霞ケ浦南岸地域が全国的にもかなり早くから製塩が行われていたことを示すものです。
海水からの最初の製塩は、海水をそのまま、または天日に当てて水分を飛ばした、「鹹水(かんすい・濃い塩水)」にして、土器で直接煮詰める「直煮」の可能性があります。また、それより少し効率の上がる方法として「藻塩焼き」があります。
弥生時代以降の製塩
弥生時代中頃には岡山県の児島地域(岡山市・倉敷市・玉野市)を発祥とする霞ケ浦沿岸とは系統の異なる土器製塩が瀬戸内海沿岸で始まります。
その後、5世紀末から6世紀前半にかけては、大阪湾沿岸から紀伊半島南部に製塩土器が出土するが、6世紀後半から7世紀後半にわたり土器製塩の中心は再び吉備地方へと戻ります。
塩田の登場と技術
海岸に製塩用に敷き詰めた砂の上に海水を撒き、天日に当てて乾燥させると、撒いた海水の水分が蒸発して砂の塩分が濃くなります。この砂に再度海水をかけ、濃い塩水(鹹水)を作り、それを煮ることで塩の結晶を得るのです。こうして採鹹のために管理された砂浜を「塩田(塩浜)」と呼びます。
「塩田」には揚浜式と入浜式という2つの系統があります。
揚浜式は、人力で海水を汲み砂浜に撒く方法で、入浜式は潮の干満差を利用して、海水を砂浜に導入する方法です。
個人的な推測ですが、千葉県市川市の塩浜地区は塩田の名残からこの地名になったように思われます。
現地調査に行ってみたいですね。
最後に・・・
ヒトの血液中には塩分が0.9%ほど含まれ、その働きによって生命を維持しているとのこと。しかし、近年のイオン交換膜法による製塩では、カリウムやカルシウムなど人間に必須のミネラルが失われているのだとか。いにしえの製塩方法で作った塩、健康にもよさそうですし、食事に試してみたいです。