神様のいたずら
こんばんは。
前回の更新から一か月以上が経過し、久々の投稿になります。
4月も終わりを迎え、まもなくゴールデンウィークです。自分は何の予定もな出勤予定ですが、せっかくなのでその前に温泉に行く予定です。
GW期間中は高い・混雑・うるさいの3拍子で癒されませんが、その前後ならばいいかと思いました。
再就職をした後も何度か面接を受ける暮らしをしてますが、なかなか納得できる職場に巡り合えません。それどころか、最近人とぶつかる(言い争い)が多くなってしまい、事後の気分不良に苛まれる日々です。
自分の思い描いていることと現実のとのはざまというのか、歪みのようなものをうまく受け止められていないようで、葛藤しているように思われますが、端的に言えば、おそらく自身のいらぬプライドが邪魔をしていることに違いないようです。
心を保たせてきたプライドは、今や身を亡ぼす歯向かう刃となって自身に向かってきているようで、逃げようにも逃げ場はなく、受け止めたくとも恐れて受け入れられぬ状況のように感ぜられます。このまま放っておけばやがて朽ち果てていくでしょうし、その前に自力で刃に歯向かって止めるのかわかりませんが、とにかく今の私は壊れていることに違いありません。
インプットが足りないと思い読書をするのですが、本の中の言葉を自分のものにしたい一心で読書に集中できていないようで、どんなに激しい結末を迎えようとも驚かず、むしろ結末を自身に置き換えて最大限の大惨事かのような妄想を繰り広げるばかりです。そして我に返って悲しくなったり、自己否定や想像を絶するような不幸や大惨事があってはならぬと自身を戒めるのですが、その戒めも長くはもたないようで、すぐに娑婆の精神に戻ってしまうようです。
娑婆の精神といいましたが、娑婆が何なのかすらわかっていません。自分は今こうやってPCに向かい、キーボードを基地外のごとく叩きのめしているばかりで、脳みそを増やしたりしわの本数を増やす努力などはせず、もっぱらこうやって愚痴めいたような文章を表現するばかりで、もはや生きている価値があるのかも不安に思われるほどです。
もっと勉強しておけばよかったし、今こうやって誰よりも不真面目な、全く生産性のない暮らしを繰り広げているであろうことが少年期にわかっていたならば、もっと悪さをしたかったし、人に迷惑かけても良かったのです。たくさんの迷惑やいたずら、手抜きや反抗をとおして学びえることはたくさんあっただろうし、常に自力の最大力を振り絞ってその仕事にまい進するなんて馬鹿らしい生き方はしなかったように思います。
結果的に、自身の経験の少なさや行動における大胆さなどがなかったが為にこうやって苦労し、当時の不良連中が今や家庭を持ち1流とまではいかないにしても、それなりの社会的地位・ステータスを確立し、当時幼少のころのいたずらや他人に対する迷惑などみじんにも感じさせず、誰よりも懸命に生きているように見て取れます。
それを見て私はさらに悲しくなり、そうやって再び自己否定と批判を繰り返し、その原因は幼少・家庭・社会・成長途上の環境や現社会にあるというのです。私自身の過去を否定すること自体がすでに自己否定であり、自己否定の前提として他社との比較があり、比較した結果幼少・成長期の私は当時の、いわゆるやんちゃな子供とは違うぞ、自分のほうが迷惑をかけていなかったのだといいたいが為の自他比較であって、結局はそれにこぎつけて自己優位性を保持するが為のことでしかないようです。
現実の比較をしたとき、過去の要素すべてを除いて確実に言えることは、少なくとも私は同期の人間と比較して劣っていることです。
人となりの生活・社会的基盤・生活保持のための経済活動・全体を維持するための人間的つながり、どれをとっても私には何もありません。
貯金も学歴も人脈、職場の信用さえありません。
失うとすれば車一台と最低限の家族的つながり。それさえも破綻寸前のように思われます。
今までやってきた経験や積み上げはすでになく、感覚も鈍り、すれ違う人さえ恐ろしく感じてしまう私に失うものは何もないのですが、ないからこそ大切にしたいわずかな保身的感情(わずかな経験が他者よりも優位に思わせる不快な元)が身を取り巻いて、自由にさせてくれません。いっそのこと前科持ちにでもなって他者よりも低頭する人生であれば、低頭する姿が自身の定型的生き方となれば、今よりも生きやすいのかもしれませんし、発生現象(出来事)に対しても自己投影・比較することなく受け入れやすいのかもしれません。
私は太宰治の「人間失格」が好きで、葉蔵のような美的男子ではないし、親・親族に恵まれているわけでもなく、むろん上級レベルの学校でアカデミックな環境に浸った経験などなく、質の良い思考回路・記憶力はない。
他人に対する恐怖感、それを何とか乗り越えようとしてひょんな方へ導かれる人生の分帰路、彼はその分帰路が実に陰惨であり、導かれるがままに鬼籍の人となってしまいましたが、私はそこまで導かれることはないように感ぜられます。
なぜなら、葉蔵のようなきれいな心はあいにく持ち合わせておらず、私の陰惨な何かは心に住み着いているようです。心に棲みついた何かは私の人生を養分に肥っていき、死にそうになると自暴自棄という形で心を維持しようとします。
健康な人が自殺をするのは自暴自棄ではなく、心に棲みついた何かに生命力すべてを吸い寄せられて、身が果ててしまうように思われます。
つまり、心に住み着いた何かに抗うだけの気力がまだ私にはある、あるからこそ反抗し、怒り、涙を流し、何とかしたいと思うのだと感じます。
神様のいたずらは、いつも、一番大切にしているなにかを人生のどこかで置き去りにすると、大江千里さん作詞の歌にありました。その歌詞の続きが「そうやって僕らを大人にしていくのだ」とつながります。
置き去りといえばそうなのかもしれないが、メモリアルのような、石碑として置き去りにするのならばいいように感じました。そして、自身の過去のもやもやも、おそらく置き去りにしなければならないものを心に抱いたまま今日(こんにち)まできたようです。
もし、私が神様のいたずらに抗ったのならば、今からでも素直に受け入れて、神様と戯れながら、置くべきところに置きに行きたいと思います。