書くということ
おはようございます。
しとしと雨の朝です。
雨が大好きなんですという方は少ないかと思いますが、自分は好きです。
雨の日特有の雨音の響きが街を包んで、人や車の往来は認識できるものの誰もが足を速めて通り過ぎていく。人が雨をよけているのではなく、雨が人々の足を急かせているかのように思われます。
街中でぽっと浮いているかのような私すらも雨の中の一人という安心感を与えてくれるようで、つまらない猜疑心や不安が軽減され、雨の日のほうがかえってお出かけしやすいように感ぜられます。
私にとって雨は、他者との壁になっているようなのです。
そんな街中で人の動きを眺めながらコーヒーやビールを飲みつつ、自分はこうやって駄文をひねっているわけで、誰もが先を急ぐ、急ぐほどの目標や達成せねばならない事があって、そうやって社会が回っているのだと考えると自分の今後の展望はいよいよ悲観的になっていきますが、かといって今すぐに悲観を感じさせる悲しいことが起こるわけでもなく、雨が地に染み入るかのようにゆっくりと、私を侵していくようです。
そうやって自身を卑下して生きてきた癖が治らないようで、今でも大きな障壁となって私をふさいできます。
例えば交友関係にある人(既に友といえる人などひとりもいませんが)・職場の人・何らかのつながりがあってやり取りのあった人、そのような人間とのかかわりの中で意見の相違があったとき、私は相手側の意見を無条件で受諾します。そして、腹の中で「こんなもの」と毒づきながらそのあとの時間を過ごしていきます。そうやっているうちに不満ばかりが募ってしまい、どこかで「もういいや」と勝手な一方的な破断を相手に通知し、そうやってあらゆる人間関係を断っていきます。
相手からの押し付けに対抗するだけの意志や相手を納得させられる説得力はなく、むろん自身の選択が正しいと思われる根拠すら持ち合わせていないので、必然的に相手の意見を全面的に受け入れていくのですが、ある時ふと思い返すと、そこに至るまでの経過に、自身の生きた証といえる道筋に、自身の意志が何も残っていないようなのです。しいて言うならば、私の心を侵す不愉快な何かが肥えていただけで、その不愉快な何かとは、今まで抗うことをしなかったことが自身の抱く他者への猜疑心や不安、自身と他者との距離の増加、そういった形で心に住み着き、増幅し、さらに強い不愉快な何かとして肥えていく。まるで負のスパイラルのように思われます。
最近、他者とのコミュニケーションでぶつかることが増えたと前回の記事で書きましたが、おそらく、今までの受動的な生き方を変えたいがために、無意識に反抗的になり、問題を引き起こしてしまっているのではないかと思います。この無意識の抵抗が好転するか否かはわかりませんし、好転の条件すらも明確ではなく、ある種の病気だと言われ診断されてしまうことがあるのならば、その時はそれを素直に受け入れるほかありませんが、少なくとも、今を過ごせるうちに過去の清算をしたい、その一心でこうやって文字を残し、人とコミュニケーションをとり、その中で感ぜられた何かと過去のトラウマを一つずつ打ち消していくような、そんな時間を今は過ごしているのでしょうか。
子供のころの自分は、他者をコミュニケーションをとることが苦手だったように思われます。
忘れ物や宿題をやらない、悪い点で目立つのですが、自身改善することもせず、それすらも忘れてしまい、朝になり学校へ行くと怒られ、他者から卑下され、それすらも夕日を見るころに忘れてしまう。
そして数十人の人間に囲まれて過ごす教室という場所は常に辛く、恐怖を感じたり、寒々しい思いをしたり、青春の輝きとか熱い思いを抱くといった輝かしいものは一切感じられず、早く帰りたい、ここではないどこかでじっとしていたいと考えていたように思われます。
同級生という言葉は常に刃物のように思われ、友達というのはペットと遊ぶような感覚でした。自分はペットなど飼ったことはなく勝手な想像ですが、遊ぶという行為の中で楽しみの共有はなく、子供でありながら人と人という関係性の中で優位性を競い、負ければ凄惨な思いをし、優位な立場になったかと思えば、相手はその競争結果に従わず、でも餌を与えると無条件で従順となる、一方で自分もそうされるのではないかと思い、他者からの供与物というのはなるべく受け取らず、無償の善意からくる行為だとしても、ありもしない疑惑を抱き、無償の善意を受け取ることはせず、もし受け取ってしまったならば道中のごみ箱に捨てるといった具合で、思い返せば子供のころからまともではなかったかのように思われます。
前述の「まとも」とは、人の道から外れる、他者の好意を無下にするといったもので、結局は自己欺瞞によって歪みのある心を無理に維持しようとする誰も得のない行いでした。
調子に乗って怒られる時があり、それもまた、自分を見失った結果だと自己を諫めることができず、その怒りさえ他者に向けたこともあります。いわゆる逆恨みというものでしょうか。
焚きつける人がいて炎上する人がいる。熱で被害をこうむり、被った側の被害者意識は炎上者へと向けられる。焚きつけた人間はのうのうと生きて、炎上した人は一生恨まれる。そうやって、私の人生は展開し、そのうち嫌われることが多くなったように感じられ、今では人とかかわることが嫌になり、関わればまた誰かが不幸になって、その不幸を私にぶつけてくるかもしれない。だからなるべく関わりたくないというのが私の今の状況なのかもしれません。
まだ雨は降り続いているようです。
街は冷たく湿った空気に包まれてどんよりとしていますが、私はこの空気のほうが過ごしやすく感じます。